四国今治温故
2018年02月08日 公開
1月4日 松山自動車道いよ小松インター過ぎの車窓からしまなみ海道(今治)方面を撮りました。
少し温故
<--クリックすると大きくなります。
↑ 右の建物が東予港日新工機のようで
結果的にこの方向を
写したことになりました。
今からおよそ55年ほど前 今治に父親と二人住んでいました。
私は日吉中学に行っていて日吉中学と今治明徳高校の間あたりに住んでいました。
現在住所は変わっているようですが、今治市城山通り北部80ではなかったかと思います。
http://iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/hiyoshi-shiroyama
現代でも城山通りとよばれている という記事を発見linkさせていただきました。
温故すると何かとあるのですが肥溜め事件が思い出されます。
当時
明徳高校のグランドの横が畑で畔道があり、自転車で通っていてフラフラとしたので小高い草むらに足をつきました。
ところが身体と自転車を支えるはずでしたが、あろうことかわずかな抵抗を残し足はズブズブと沈んでいったというしだいです。
「肥溜め」絶滅危惧物件のいまこんな話はなんのことやらですが、同年代前後にになると必ずしもこんな経験はないこともないようで臭い立つ思い出でです。
続くかも
少し温故
<--クリックすると大きくなります。
↑ 右の建物が東予港日新工機のようで
結果的にこの方向を
写したことになりました。
今からおよそ55年ほど前 今治に父親と二人住んでいました。
私は日吉中学に行っていて日吉中学と今治明徳高校の間あたりに住んでいました。
現在住所は変わっているようですが、今治市城山通り北部80ではなかったかと思います。
http://iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/hiyoshi-shiroyama
現代でも城山通りとよばれている という記事を発見linkさせていただきました。
温故すると何かとあるのですが肥溜め事件が思い出されます。
当時
明徳高校のグランドの横が畑で畔道があり、自転車で通っていてフラフラとしたので小高い草むらに足をつきました。
ところが身体と自転車を支えるはずでしたが、あろうことかわずかな抵抗を残し足はズブズブと沈んでいったというしだいです。
「肥溜め」絶滅危惧物件のいまこんな話はなんのことやらですが、同年代前後にになると必ずしもこんな経験はないこともないようで臭い立つ思い出でです。
続くかも
スポンサーサイト