2017年 日常へ

6日から学校も始まり誕生日などのイベントも終わり日常に戻りつつあります。

於大公園の施設(このはな館)
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そばには宇宙稲荷大明神も
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於大公園(おだいこうえん)は乾坤院(けんこんいん)東隣の自然地形を生かして作られた都市公園です。面積12.1ヘクタール、外周散策コース約1.4キロメートル、四季折々の緑や花が溢れ、野鳥や昆虫も多く集まる自然豊かな環境が特徴です。
「於大の方(おだいのかた)」の夜着の柄である菊の花びらをモチーフに建築されたこのはな館公園事務所が公園の中央にあり、公園の自然や植物、生き物をテーマに緑の講習会や緑の展示会を開催しています。
薬木約100種類、薬草約60種類を植栽している薬木薬草園、絶滅危惧種のオニバスを栽培するオニバス池、400本の桜、60本の枝垂れ梅、緑に囲まれた小さなバラ園、花菖蒲、竹林、沿道やこのはな館まわりの花を中心とした植栽、緑のカーテン、紅葉など、1年を通して散策を楽しむことができます。
<--引用終わり

引用ーー>
享禄元年(1528年)、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に、忠政の居城緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた(青山政信の娘で忠政の養女であったという説あり)。
父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせ、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年(1541年)に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を出産した。
しかし忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、天文14年(1544年)に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁され、実家・水野氏の三河国刈谷城(刈谷市)に返された。於大は天文17年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁した。これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていたが、妻の死後は水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には3男3女を儲ける。また、この間にも家康と音信を絶えず取り続けた。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号した[2]。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い後、子の松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上したが、強く反対し、家康に断念させた。慶長7年(1602年)には、高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示した。
同年、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。菩提寺は各地に建てられた。
なお、於大の出生地・東浦町は彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。
<--引用終わり

徳川家康の母と宇宙なんか関連があるのでしょうか。


久々の愛知健康の森
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久々の菜飯と田楽
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娘と孫が新年会で家人が胃の調子がわるいと優しい食事を・・・・・・と。

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