続 知多八十八箇所

とあるお寺の本尊を

P6020023-S.jpg <--クリックすると大きくなります。

初めて気が付きましたが
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引用ーー>
太子信仰と多様な聖徳太子像
聖徳太子は用明天皇の皇子として生れ、厩戸皇子とか豊聡耳皇子と呼ばれたように、幼い頃からたいへん聡明な少年であったと伝えられています。
 とくに、太子の青年期には父用明天皇の早世、蘇我氏と物部氏の二大豪族による激烈な対立、叔父の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されるという前代未聞の悲劇などを目の当たりにされたことが、その後の太子の人間形成に大きな影響をおよぼしたと思われます。
 やがて推古天皇の皇太子となった太子は、「十七条憲法」や「十二冠位」の制定をはじめ、遣隋使の派遣などを推し進め日本国家の礎を築かれました。
 そのような優れた才能に恵まれた太子でありましたが、ついに皇位につくことはありませんでした。やがて太子の率いる上宮王家の人々は飛鳥の地を離れて斑鳩へ移りすむこととなりました。しかし、それはけっして飛鳥の都からの逃避ではありません。むしろ太子自らの理想を実現する拠点とするために斑鳩へ進出されました。
 太子は斑鳩宮において理想郷の実現を目指すかたわら、高句麗の慧慈法師の指導のもとに仏教をまなび「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の註釈書を著わしたり、法隆寺などの寺院を建立して、積極的に仏教の興隆に尽力されました。
 しかし、その太子の身に覆いかぶさるかのように暗雲が押し寄せました。まず太子の母、穴穂部間人皇后が推古29年(621)の12月に薨去されました。その直後から太子も発病され、つづいて最愛の妃であった膳部菩岐々美郎女が看病疲れのせいか、太子に先立って亡くなっています。その翌日に太子も斑鳩の宮殿で薨去されました。ときに推古20年(622)2月22日、太子49歳でありました。
 悲嘆にくれた妃や皇子たちが太子の薨去を悼み「釈迦三尊像」や「天寿国曼荼羅繍帳」を造って追慕したことはよく知られています。
 釈迦三尊像は、太子が薨去された翌年の推古21年に太子をモデルとして造ったものであり「釈迦三尊像=太子の姿」と考えられています。それは釈迦三尊像の光背裏に彫られた銘文に「当に釈像の尺寸王見なるを造るべし」と記されることによります。
 また、太子等身と伝えられている救世観音像をはじめ、太子が赴かれたとされる浄土の様子を想像して刺繍した、天寿国曼荼羅に見られる男性の姿は、太子として追慕したものと考えられています。
やがてそのような太子追慕の気運を背景として、太子は7世紀の後半から、さらに多くの人々から尊崇されるようになり、斑鳩宮の旧跡が、太子の聖蹟として復興されることになりました。
 天平年間に行信という高僧によって太子を供養する寺院として建立されたのが「上宮王院」(夢殿)で、その本尊には太子と等身の救世観音像を安置しました。そこには太子の遺品をはじめとし、命日を意識して奉納された多くの宝物類も納められるようになりました。その中心の建物である八角円堂夢殿の前では、太子を供養する法要である「聖霊会」が執り行われるようになりました。
 この上宮王院を中心として太子信仰が盛んになりました。太子の五百回忌に相当する保安2年(1121)に法隆寺における太子の供養堂としての聖霊院が建立され、その本尊として「勝鬘経講讃像(摂政像)」が安置されました。それに先立って延久元年(1069)には太子の一代の絵伝を描くとともに、それを奉安する絵殿が建立されました。
 大治元年(1126)には、太子が講讃された「勝鬘」「維摩」「法華」の三経の研鑚道場である三経院、承久2年(1220)には、太子の掌中から出現したと伝えられる舎利を奉安する舎利殿などの造立が相次ぎ、それらの殿堂では太子を供養する法要が行われました。これらの殿堂の建立とともに、その本尊となる太子像も多く造顕されました。
聖徳太子には実に多様な肖像があります。2歳の春、合掌して「南無仏」と称えた姿を現した「南無仏太子像」。父、用明天皇の病気平癒を祈る姿の「孝養像」。冕冠をいただき、経机の前に坐して勝鬘経を講じる「勝鬘経講讃像」。巾子冠をいただき、緋袍を着し、執笏、 佩刀する「摂政像」。さらに、座り方、服装や持ち物、脇侍像や背景の違いなどによるバリエーションを加えると、その種類は多岐にわたります。
 鎌倉時代になると、西大寺の叡尊や法隆寺の顕真、浄土真宗の開祖である親鸞らの鼓吹によって、太子信仰は大きな広がりをみせ、それに伴って太子伝の伝説化が進み、太子像の造立も爆発的に増加しました。また、太子像は太子伝の特定の記述と結びつき、さまざまの姿を異にしたものが造顕されてきました。
<--引用終わり

そして
もうひとつの太子信仰は
聖徳太子は大工道具として欠かせないモノサシ、曲尺の使用を日本に広めた人物とされ、ここから大工や木工職人の守り神となっていったのです。
このような信仰は室町時代末からはじまり、江戸時代には大工、木工、さらには左官、桶、鍛冶といった職人たちが「太子講」を営みました。講とは信仰を媒介にした結社、組合のようなものです。
太子講で拝まれる聖徳太子像は、上記の「太子孝養像」によく似ています。「孝養像」では太子が両手に香炉を捧げ持っていますが、太子講の像は香炉が曲尺に置き換えられています。
この2系統の太子信仰が、いつしかないまぜになって、空海をあがめる「大師信仰」などと同様に、現世利益をもとめる庶民信仰の代表格になっていったのが、聖徳太子信仰というものだと考えればよいかと思います。

ほっほーー お札の肖像になったのは現世利益をもとめる庶民信仰なんでしょうか?

煩悩まるだししてます。

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