10月3日

愛知のMさんと愛知の私は2:58からTALK。(黒文字は愛知のMさん)
巡礼の興奮で目が覚めました。

うは~!歩く気満々ですね。


知多四国巡礼
二十三番 蓮花院
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二十二番 大日寺
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五十七番 報恩寺
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五十五番 法山寺
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五十番 大御堂寺
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五十一番 野間大坊
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五十三番 安養院
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五十二番 密蔵院
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五十六番 瑞境寺
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四十九番 吉祥寺
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二十四番 徳正寺
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JR武豊駅ー二十三番ー二十二番ー名鉄上ゲ駅 (距離測定なし)

名鉄知多奥田ー五十七番ー五十五番ー五十番ー五十一番ー五十三番ー五十二番ー五十六番ー四十九番ー名鉄野間駅
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名鉄知多武豊ー二十四番ー旧国鉄武豊港駅転車台ーJR武豊駅
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歩行距離13kmオーバーです。
予定では河和から武豊を回る予定でしたが、旧国鉄武豊港駅転車台があるということでそれは見なければと、二十三番から二十四番上ゲ駅から時間の関係で知多奥田へ向かい野間方面を回り武豊に戻りました。

源義朝
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引用ーー>
敗走・死
信頼を見捨て息子の義平・朝長・頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛・渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上たび重なる落武者狩りの襲撃を受け、朝長・義隆・重成は深手を負い命を落とした。また頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、義平は北陸道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗する。
義朝は馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、政清の舅で年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害された(『平治物語』)。享年38。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされる。年が明けた正月9日、両名の首は獄門にかけられた。
伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられている。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある。
<--引用終り


旧国鉄武豊港駅転車台
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引用ーー>
旧国鉄武豊港駅転車台は、当駅隣接地で操業していた旧ライジングサン石油(後のシェル石油)の油槽(ゆそう)所へ貨車を出入させるための転車台である。
転車台は、平成11年(1999)8月、武豊町立武豊小学校の5年生児童が「総合的な学習の時間」の授業の課題で、町の史跡を調べる歴史探訪に出かけた際に発見した遺構である。同年12月、小学生は学習の総仕上げとして、町長から町の歴史について話を聞いた際に保存を要望、これを契機に復元、保存の検討が始まった。転車台は、風雨にさらされ、傷みも激しかったが、小学生の声が町長に届き、平成13~14年度(2001~02)に、覆屋をかけるなど保存修理等が行われ、現在に至っている。
転車台のあった武豊線は、明治19年(1886)、旧武豊港の桟橋から熱田までの間に敷かれた愛知県下の最初の鉄道である。旧武豊港駅があった場所には開通100周年を記念した「武豊停車場跡地」の記念碑が建っている。武豊線敷設の目的は、武豊港が、高崎~大垣間(中山道線)の鉄道建設に伴う資材陸揚げの最適地であり、その後、東海道線の建設に変更され、資材運搬に使用された。また、開業時から客車の運行も行われている。開業当初から木造の転車台が架設されているが、その後の消息は定かでない。なお、この転車台は昭和2年(1927)に設置されたものである。
転車台は、2組の桁を直角に組み、桁上に軌条を敷設した上路型の直角2線式で、桁長は、7.5mである。規模は、石油製品輸送用20t積み3軸タンク車に合わせたと考えられている。橋桁の中央下部には、橋桁を支える軸受があり、先端下部には、8個の車輪がついている。車輪は、橋桁を支えながらコンクリート基礎に枕木で固定された円形レール上を回転するようになっている。そして、資材を運搬する貨車を転車台に載せ、手動で110度方向転換させた。この角度は、敷設されていたレールの角度によるものである。また、1線式ではなく2線式にしていたのは、貨車を何台も連続的に方向転換させるのに効率がよいと考えられている。この直角2線式転車台は、全国的に残存例の少ない貴重な存在であり、鉄道技術の歴史を実証的に物語る貴重な遺産である。
<--引用終り
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今昔田舎亭
Posted by今昔田舎亭

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