12月20日(火)

バイトの後、午後から定例の医者と骨の医者と回り帰宅したのが午後7時前になりました。

主治医にも肋骨の骨折のことを話し、位置の確認のためにレントゲンをとりました。「肋骨の折るっと、息ばすったび痛かもんね」「そるがそぎゃんな痛となかけんよかですたい、ただ出血のするばってん」痛みが少ないことを不思議だとしながらも「骨に血管の引っ付いて通っとるけん、折れかたによって血管の切れち出血すたい、ばってんそらだんだん止まったい」写真を見ながら「折れたとこっのちーったずれちひっかかっとるけん、こらつがるばい」と・・・・痛みが酷くないのでとりあえず湿布をはっとくことぐらいでした。
そして内出血で腫れているので血を抜きに整形病院へ・・・・「頻繁に抜かんちゃよかばい」と「腫れちパンクせんとじゃろか?」血の色も薄まり出血も止まっているようで、結果的に水抜きになりました。


居住地、バイト先の状況説明を、
市のサイトにある「近代の山鹿の偉人たちシリーズ」原口長之先生のPDFから
一部引用ーー>
弁慶ヶ穴古墳の調査と装飾の発見
原口は昭和三十一年には弁慶ヶ穴古墳(山鹿市熊入町)の清掃と実測調査にとりかかった。
大正十二年(一九二三)に鹿本郡役所が発行した『鹿本郡誌』に弁慶ヶ穴古墳の記述があり「…石を以て疊める石槨あり、俗に弁慶が穴といふ、入り口の左側に馬の壁畫あり猶内部精査せば新発見すべきものあらん…」と記されている。
また、山鹿市立八幡小学校に保存されている『昭和九年度調「郷土調査」』鹿本郡八幡尋常高等小学校刊に「…大正二年内務省より古墳紋章調査に出張の時内部の石に朱にて馬を書きたるを発見したり今古墳を尋ぬる者多し」とも記されているが、昭和になり誰もこの馬の絵を見た人がいなかったので、これを確認するための調査であった。
弁慶ヶ穴古墳は長い間、浮浪者のねぐらとなっており石室内部で焚火も行われていたので、天井や内壁など石室全体が真っ黒に煤けていた。
這い上がる蚤を殺虫剤で退治しながら、側壁に水をかけて亀の子たわしでゴシゴシとこすった。
すると驚いたことに続々と雄大な壁画が姿を現したのである。(筆者は当時山鹿高校考古学部に三年生で参加していた)まさに「精査せば新発見すべきものあらん」だったのである。
ゴンドラ型の舟が十一艘、馬を載せた舟や柩と考えられる荷物を載せてその上に鳥が止まっている舟もある。
赤一色でたっぷりと顔料が滴るほど筆太に描かれた壁画には迫力がある。
また、赤・白・灰色の三色で描いた幾何学文様や、番人を彫刻した人物像なども現れた。
弁慶ヶ穴古墳は舟と馬の図柄が多いのが特徴で、装飾古墳の最高傑作とも言える発見であった。
これにより、考古学者原口長之の名が全国に知れ渡り、弁慶ヶ穴古墳は昭和三十一年に国史跡に指定された。
熊本県下の装飾古墳は大正時代から学会の注目を浴びていたが、このころは熱気が下火になっていた。
それが、弁慶ヶ穴古墳装飾の発見で再び点火されることになった。
折から東京大学教授江上波夫の騎馬民族征服王朝説(古墳時代にユーラシアの騎馬民族が日本列島に入り征服王朝を建てたという説)が発表されて騒然としている中で、それを裏付けるかのような馬の図柄であった。
当時は公費による発掘調査費が殆ど支給されない時代であったから、自治体の教育委員会や大学の考古学教室などよりも、発掘要員を持つ高校の考古学部による発掘調査が多かった。
県下では玉名高校と山鹿高校の考古学部が車の両輪として活躍していた。
こんな中で、原口は生徒を人夫代わりに使うことを嫌った。
人間的な交流を深めるという合宿が持つ精神的な効果を重視し、学問的な雰囲気も与えたいと考え、夜のミーティングに生徒も参加させた。
そして、学問的要請と生徒の健康や安全の確保という教育的配慮とが競合するときなどは、指導者の坂本経堯と論争してまで教育を優先した。
原口はその後も同三十二年に千田持松石棺群(山鹿市鹿央町)、津袋大塚古墳(山鹿市鹿本町)を調査、同三十三年には上御倉古墳(阿蘇市)でも装飾を発見する。
そのほか彼が手掛けた遺跡の調査は数多い。
現在国内で知られている装飾古墳は約六六〇基、九州に約三七○基と半分以上があり、熊本県が一九六基で第一位、菊池川流域に一一七基が集中しており、第二位の福岡県約七○基をはるかに超えている。
山鹿市には五十一基の装飾古墳があり、市町村単位では日本一の分布を誇っている。
昭和五十一年に熊本県立美術館が開館したとき、熊本県の美術の特色を示す展示として装飾古墳が選ばれ、装飾古墳室が設けられた。
また平成四年に県立装飾古墳館が装飾古墳の集中地帯である山鹿市鹿央町に建設されたのも、当然かと思われる。

<--引用終わり
日本一装飾古墳が多い事と「近代の山鹿の偉人たちシリーズ」がありますよ と宣伝しておきます。
ちなみに県立装飾古墳館には、今日の装飾墳墓みたいなカウンターが表示してあったと思います。


網田
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今昔田舎亭
Posted by今昔田舎亭

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