11月2日(水)

免許更新の講習で新免許(IC免許?)の説明があり免許従事者が
 熊本市熊本城1丁目2-3  肥後花子 さんという方でした。

10月30日の続
没後100年 よみがえる神と芸術 青木繁展 図録 青木繁と三人の友ーー坂本繁二郎、蒲原有明、梅野満雄
坂本繁二郎と青木(抄)
坂本繁二郎(1882~1969)は、青木と同じ年に同じ久留米に生まれた。久留米高等小学校では青木と同級であった。その後の思い出として「直ぐ後ろの机に君の席があった時の君のにこにこした顔を覚えて居る」と、先の画集の追想起に書いている。坂本は幼少より絵を描くのが好きで、久留米の洋画家森三美の画塾に通っていた。やがてその画塾にも通うようになるのである。
1899(明治32)年、青木が画家を志して上京の際、坂本も誘われたが、家庭の事情が許さず断念した。が、1902年、青木が徴兵検査のため帰省した折、その画業の上達ぶりを見せつけられ、上京を決意した。上京後は青木と同宿、その年の秋の妙義浅間写生旅行に同郷の丸野豊とともに同行した。この旅行はほとんど無銭旅行に近く、このときの宿代は坂本が伯父に頼んで調達したらしいことが、坂本書簡より推測できる。
1904(明治37)年、今度は房州布良への写生旅行に、森田恒友、福田たねとともに同行。《海の幸》に描かれている光景を青木が実際に目にしたわけでなく、自分の話を聞いて想像で描いたものだということを明かしたのは、《海の幸》制作から65年もたった坂本最晩年のことであった。常に青木と比較され続けてきた老画家が、悔いのない自らの人生を振り返ったとき、初めて若い頃の思い出を冷静に語る境地に達したのかもしれない。同時に「目に見えない競争意識があったのは事実です」とも、「これほど尊敬と批判の交錯した微妙な陰影を投げかけた友はなく」とも語っている。

《海の幸》に見る青木繁の想像力
に、青木繁が公に《海の幸》について語ったことは極めてすくなく、《わだつみのいろこの宮》について書いた文章のなかに一節、
抑も造形美術絵画の健全な主観的成立には我輩の考えを以ってすれば(一)想(二)知(三)技、この三要素が在て各矛盾したる鼎の脚の如きもので何れの一つを欠く事ができないのである、・・・・「海の幸」は第一要素の「想」を主にして試みた積りで落想の印象に注意したが幾分顕はれたと思いついたから其目的は多少達したものとしておき、・・・・とあり
サメを背負う男の図想には前田夕暮の歌集「生れくる日に」のための坂本繁二郎の挿絵がある・・・・。

海の幸
DSCF0148-s.jpg

悲劇の洋画家 青木繁 伝 
のあとがきに
この海辺の牛の絵は、青木繁の生前、一度も展覧会に出品されることはなかったが、坂本は、同趣向の海の絵を、繁没後翌年の第六回文展に『うすれ日』と題して応募し、漱石に「この牛は何かを考えている・・・・」と激賞され、大正三年には『海岸の牛』という作品を発表している。
とあります。

身近な人が相互に影響があるのは当然なのでしょうし、ゼロから何かをというのはなかなかどうして、と思うのです。という凡人説を・・・・アチャ。

スポンサーサイト



今昔田舎亭
Posted by今昔田舎亭

Comments 0

There are no comments yet.

Leave a reply